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明初景徳鎮官窯のすばらしい青花は洪武・永楽・宣徳と明確に捕捉できるが、当初の民窯、更に宣徳に続く正統・景泰・天順のいわゆる空白期の青花については従来はほとんど知られなかった。ところが正統の遺跡や景泰の窯杜から出土した青花、またわが国で雲堂手と呼ばれるもの等が実は此種15世紀の空白期を埋める
ものの一種であることが最近になって判明してきた。これを鍵とすれば、近頃束南アジア各地から出土する多数の民窯青花の中には実はこの空白期のものに該当するものが含まれ、更には永楽や宣徳の民窯青花の類もこれから類推する事が可能となるように考えられるのである。
元末から明の中期にかけて「法花」と呼ばれる特殊な彩粕磁が流行した。異国風の濃い色調で、これはおそらく西方の回教圏の彩柚技法を採り入れたものであろう。華北の山西が主産地で、「琉璃」と呼ばれる彩粕の装飾瓦やタイルから派生したものと考えられる。その流れは河南や陳西の一部にも及び、後には景徳鎮でも価製された。
次に景徳鎮では成化以降、弘治・正徳を経て嘉靖にいたる問は紬上加彩、すなわち上絵付の五彩磁が次第に盛んとなった。優美繊細な成化官窯の五彩(豆彩・闘彩とも書く)から濃厚鮮明で文様も豊富な嘉靖官窯の五彩、それに金彩を加えた、いわゆる金欄手の豪華版も流行し、嘉靖の景徳鎮は官窯民窯を問わず未曾有の繁昌をみた。
しかし次きざしの萬暦時代に入ると、明王朝に漸く衰微の兆があり、濃艶な萬暦赤絵はむしろ燗熟頽廃の象徴としての魅力を発揮する。そして天啓以後、景徳鎮窯は朝廷の保護もうすれ、衰亡をたどるが、一面において陶工たちは官窯のきびしい監督から解放されて自由な製作ができるようになり、その作品は粗略の中にかえって瓢逸の妙味のあるものが生れた。
清朝では、康牌に入ってはやくも官窯が復活し、景徳鎮は再び活況をとりもどした。康煕から薙正・乾隆の間は技術の進歩が特にめざましく、五彩のほか粉彩の新種が成功し、単彩粕でも紅・白・青各種の新製品が続出して清朝精磁の極盛期を迎えるにいたった。
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